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句集『コイツァンの猫』 こしのゆみこ
   
著者略歴 こしのゆみこ
1951年 愛知県幡豆町海の町に生まれる
1989年 「海程」入会 金子兜太に師事
1993年 海程新人賞受賞「海程」同人
1994年 超結社句会「豆の木」を片岡秀樹等と結成後に代表・編集人
1998年 第16回現代俳句協会新人賞受賞
2004年 第5回現代俳句協会年度作品賞受賞
現代俳句協会会員「海程」同人「豆の木」代表
   
序に代えて 金子兜太
私とこしのゆみことの俳句による付合いは二十年ほどになるが、いまでもこの人
の俳句を読んでいると、里山に春が来て、最後にぼこっと一つ、山頂ちかい凹みに
残っている雪、その丸いかたまりが見えてくる。私の郷里は秩父(埼玉県西部)と
いう山国で、そんな春来る里山の風景を見て育ったのだが、それがなつかしく想い
出されてくるのである。しかも、その雪の丸いかたまりはしだいに綿か羽のかたま
りのようにも見えてくる。もやっとした、やわらかい感触になって、芽ぶきのはじ
まった枯木のなかでぼんやりと、なんとなくにこにこと、そこにいるのである。
こしのゆみこにこんな俳句がある。
金魚より小さい私のいる日記
百足の子鈴つけて大急ぎなり
きゃっきゃっと水新米によごれおる
透明な袋満員寒卵
そのほかにれんげのかんむり流しけり
こうした、ぼやっとした、にこにこした俳句が挙げきれないほどあるわけだが、
次のような「左の手」に妙にこだわった句の奇妙ににこやかな感触にも、私はなん
となく惹かれていたのである。とにかく常識的ではない。
ほうたるにおくれがちなる左の手
左手のちょっとよごれて青蛙
左手がはかる左の足の冷え
そして、自画像と受取れる句のいくつかを。
朝顔の顔でふりむくブルドッグ
盲導犬にこにこ歩くみどりの日
うまれつき小鳥なくしたような眉
わたくしの影はこな雪のさらさら
四句日の「わたくしの影」は少し分りがよすぎるところもあるのだが、しかし、
これはこしのゆみこだと領けて、あの里山の雪、それがいつのまにか綿や羽のかた
まりになる。このイメージと重なってゆくのである。
こしのゆみこは「越野商店の幻想俳句から」という自句日解のような味(あじ)な随筆を
書いていて、「夏氷」を例に挙げての自己解説が、この人らしく、おもしろかった。
「夏氷」を思いうかべただけで「目はうるうるなのだ」と言う。理由は、これは
私の推察も入るが、要するに、体の弱い父がはじめたよろず屋越野商店で、その初
めの頃かき氷がよく売れて、小学生のゆみこを含む「ぐうたら親不幸三姉妹」も手
伝わされたらしい。父が好きなゆみこの記憶のなかでは、したがって「夏氷」は感
動的な位置を占めていたのである。
だから「目はうるうるなのだ」。「夏氷」というこの言葉さえあればよいと思う
から、他の言葉を抑えるため、後から読むと「自分の熱い思いとはかけ離れた乾い
た句になっていて、びっくりする」という。
またこうも書いていた。自分は 「体内五・七・五感覚が音痴なのだ」言葉が自然
と湧き出るような「俳人の体」になれない体質なのだ。そのため意識して作る、と。
そのこしのゆみこは絵、彫刻、陶芸にあこがれ、そしてこれはとくに猫の陶芸な
ど今でも熱心にやっているが、いつの間にか俳句までやるようになったのは、父の
影響だったようだ。その父については自身あとがきで書いているし、父の俳句も掲
げている。父が好きなのだ。会えばいつまでも喋っていたという。
私が選んだこしのの父のいる俳句をあげてみよう。
小鳥屋をのぞく父たち帰るかな
人買いのごとく磐越西線父黙る
ああ父が恋猫ほうる夕べかな
そして忘れられないものに、故郷の愛知県幡豆町の三河湾に浮かぶ兎島がある。
いまは無人島の由だが、子供のころは引き潮のとき歩いて渡ったし、兎が放し飼い
されていたそうだ。こしのは卯年生まれなのだ。
兎島桜の色となりにけり
なにか兎島と体で引き合うものがあるのだろう。そう思ったとたんに私は笑って
しまった。こしのゆみこ自身が兎だったのだ、と。あの笑い顔、「うるうる」にな
りやすい眼、「桜の色」の全身感覚。―里山の綿か羽かのかたまりは兎だったよ
うだ。
とにかく書きたいことはいくらでもあるのだが、この辺で止める。夫君が気鋭の
翻訳家で、いっしょに海外に出かけることも多いようだから、これからますます、
こしのの俳句は、「俳人の体」でもない体で、「意識して」創られてゆくことにな
るのだろう。楽しみ多し、と言いたい。
平成二十一年(二〇〇九)年正月
武州熊谷にて。
   
豆の木2009 №13より自選他
こしのゆみこ自選(十五句)
郭公の鳴いているのは違う県
水玉の服に体はまぎれたる
朝顔の顔でふリむくブルドッグ
麦藁帽夕暮れのようにふりかえる
えんぴつで描く雨つぶはひぐらし
蜻蛉にまざっていたる父の顔
鶴来ると満員になる日記帳
二次会や白鳥の中に入っていく
母はひろってきれいに毬をあらう
海しずかヌードのように火事の立つ
西口はよく晴れている花衣
僧ひとり霞の中へ掃きにゆく
ひよこ売りについてゆきたいあたたかい
青ばかり使う日子猫抱きにけり
そのほかにれんげのかんむり流しけけり
矢羽野智津子選 (十句)
傾ぐ頭直す理髪師みどりの日
困っている顔かもしれぬ向日葵は
女から乗せるポートのゆれにけり
炎帝の巻き尺なにもかも測る
どこか葉っぱ焦げているから髪洗う
母はひろってきれいに毬を洗う
すずしろすずしろといい澄んでゆく
わたくしの影はこな雪のさらさら
常に着るセーター蘭の中に置く
いたくないかたちに眠る花月夜
三宅やよい選 (十句)
鈴のよく鳴りし裸のありにけり
トースターテツペンカケタカ麺麭跳ンダ
ナイターを抜ける途中の光る橋
朝顔の顔でふりむくブルドッグ
えんぴつで描く雨つぶはひぐらし
冬芽たくさんあいさつしてくる車掌
ひよこ売りについてゆきたいあたたかい
西口はよく晴れている花衣
わがあたま穀雨の中をゆっくりす
青ばかり使う日子猫抱きにけり
小野裕三選 (十句)
春あけぼのママレードのふたがあかない
一階に母二階時々緑雨かな
卯月野をゆくバス童話ゆきわたる
わが頭穀雨の中をゆっくりす
夜のトマト家族の顔映っている
親戚にぼくの如雨露のありにけり
炎帝の巻き尺なにもかも測る
紅葉かつ散る空色にぬるおもちゃ箱
母はひろってきれいに毬をあらう
海しずかヌードのように火事の立つ
  
こしのゆみこをめぐる三つの断章(抜粋) 小野裕三
1 詩の抽斗
夏氷皿百枚越野商店御中
本当に不思議なのだ。この人の世界は。強引なのかシ
ャイなのか、もよくわからない。というのは勿論本人の
話ではなく、俳句の作風の話である。思うのだけれど、
これほど俳句とは遠い風土のように見えながら、しかも
同時に詩としての俳句の核心に肉薄している人は稀有だ
と思う。彼女の作品は、極めて俳句的ではないが、それ
にも関わらず極めて純粋に俳句として吃立している。
この秘密は何なのだろう、と考えたら、どうやらその秘密
は「越野商店」にあるようだ。「越野商店」とは、彼女
の実家が経営していた今はなき雑貨店だが、それはこし
のゆみこの頭の中にも幻の時空として存在している。さ
まざまな雑貨類が雑多にごろごろと置かれていたのだろ
うその場所には、実はいろんな異次元空間に繋がる詩の
抽斗が隠されている。それは確かな時間の影を宿した雑
多な空間であると同時に徹底して俗な空間でもあり、で
あるがゆえにその空間を詩に昇華させる強い力を持つ。
そして実はそのような力とは、季語や歳時記が持つ性質
とも強く類似している。つまり、彼女にとっての「越野
商店」とは歳時記と同質な機能を果たしている独自の詩
嚢なのだ。このように歳時記とは似てしかし非なる空間
を自らの詩嚢として持っていることが、こしのゆみこの
俳句が極めて俳句からは遠い場所にありながらしかも極
めて俳句的な本質を持っていることの理由である。
一階に母二階時々緑雨かな
例えばここに、彼女の見つけた「二階」がある。日本
の家屋では、二階という空間は一階に比べてほんの少し
だけ異界だ。一階のように公の場所ではない。それでい
て、一階の物音も耳を澄ませば聞こえる。道を行き過ぎ
る人々の姿も窓から見える。その一方で二階の窓からは
青い空や澄み渡る星空も見える。文字通り宙に浮いたよ
うな場所。浮き世の四方山事と、天空の広がりの、その
両方に繋がった空間。そんな二階という空間が畢む異界
性や感傷性、そしてそれらが渾然となって醸し出す日本
的叙情と日本的詩性をこしのゆみこは見事に俳句の言葉
に変えてみせる。
このように、彼女が見つけだした詩の種は数多い。け
れども、おそらく彼女の最大の手柄は彼女自身の名前だ。
「越野優見子」から「こしのゆみこ」へ。その変身ぶり
と言ったら、どうだろう。画数の多い文字の行列が、重
力を振り払ってすらりと解けた紐のように身軽になった
ではないか。彼女は自分の名前の上にもひとつの軽やか
な詩を創り出した。かくして、魔法のように軽やかに言
葉を操る俳人「こしのゆみこ」は生まれた。
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