金 子 兜 太

                                
・句集の森

『休むに似たり』



 2008年7月刊
 ふらんす堂
 2,286E
 
  池田 澄子句集より50句              TOP   BACK         

11月の秩父道場に池田澄子さんに講演をお願いしました。
   句集から50句紹介します。その中で赤字は戦争の句です。
『休むに似たり』は池田さんの初めての評論集です。鋭い評ですが柔らかな優しさに充ちています。





  池田澄子略歴 (いけだ すみこ)


  1936年3月25日、鎌倉市生れ。新潟で育つ。
  堀井鶏主宰「群島」を経て、三橋敏雄に師事。
  句集・『空の庭』『いつしか人に生まれて』『現代俳句文庫29・池田澄子句集』
  『ゆく船』『たましいの話』
  収録・『俳句・イン・ドローイング』『最初の出発・第三巻』『現代俳句パノラマ』
  『現代俳句集成』『女流俳句集成』『現代俳句一〇〇人二〇句』『現代詩歌集』 他。
  所属・「船団」「豈」「面」






「空の庭」一九八八年刊

 的はあなた矢に花咲いてしまいけり

 未だ逢わざる我が鷹の余命かな

 じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

 呼んでいただく我が名は澄子水に雲

 生きるの大好き冬のはじめが春に似て

 湯ざましが出る元日の魔法瓶

 息吸えば吐かねばならず曲り茄子

 ピーマン切って中を明るくしてあげた

 逢わぬ日を地つづき霞つづきかな

 あめんぼがあめんぼを見る目の高さ

 月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ


「いつしか人に生まれて」一九九三年刊

 春風に此処はいやだとおもって居る

 屠蘇散や夫は他人なので好き

 産声の途方に暮れていたるなり

 蚊柱の傍に居させていただきぬ

 いつしか人に生まれていたわ アナタも?

 号泣やたくさん息を吸ってから

 砂糖醤油しみて鰈はさびしかろ

 想像のつく夜桜を見にきたわ

 (いた)みつつ桃のかたちをしていたり



「ゆく船」二〇〇〇年刊

 春は名のみの三角巾をどう干すか

 異常発生したる元気のない羽蟻

 気がゆるむと騒ぐたましい寒月光

 TV画面のバンザイ岬いつも夏

 山椒魚ついつい山椒魚を産み

 素粒子の互いにさびし鮭の氷頭

 人生に春の夕べのハンドクリーム

 カメラ構えて彼は菫を踏んでいる

 八月十五日真幸(まさき)く贅肉あり

 椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ

 初恋のあとの永生き春満月

 青嵐神社があったので拝む

 太陽は古くて立派鳥の恋



「たましいの話」二〇〇五年刊

 泉あり子にピカドンを説明す

 前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル

 フルーツポンチのチェリー可愛いや先ずよける

 夕月やしっかりするとくたびれる

 お辞儀してマフラー垂れて地上かな

 目覚めるといつも私が居て遺憾

 刺した蚊と痒い私とうすら寒

 雨の月ふゝと我が身をいでたつ声

 震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う

 人類の旬の土偶のおっぱいよ

 茄子焼いて冷やしてたましいの話

 先生ありがとうございました冬日ひとつ

 先生の逝去は一度夏百夜

 人が人を愛したりして青菜に虫

 舌の根やときに薄氷ときに恋

 戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ

 売り切れの鶯餅のあった場所

 うめもどきうらみつらみのなつかしく

 お湿りや水仙に香を有り難う


句集以後

 きぬかつぎ嘆いたあとのよい気持

 春の夜の蚊よ蚊にさぞや会いたけれ  

 八月来る私史に正史の交わりし

 秋近し旗の余白に字を書くな   

 しぐれ煮の浅利の生きていた日など 

 指牢の蛍を覗かせてもらう   

  出目金(でめきん)の頭痛そう夢見月

 野に在りて小鳥ごこちや百千鳥

 春日遅々男結びの場合は切る

 兵泳ぎ永久に祖国は波の先

 本当は逢いたし拝復蝉しぐれ 

 俳句思えば徐々に豪雨の吊忍   





 『休むに似たり』より抜粋    池田 澄子


 取り返しつかぬこと わが原風景と作品

  初めて詩を書いた、詩のつもりのものを書いたのは、敗戦の一年前、国民学校二年生のときだっ た。父が中支で戦病死した知らせを受けた日のことを書いたのだが、最後の二行だけ覚えている。
 わたしも かなしかったが

    お母さまは もっとかなしそう。

  担任の先生が、自分の気持だけでなく人を思いやったところが良いと褒めてくださった。悲しく 恨めしく誇らしく、こんがらがって困ったその時の気分が鮮やかに思い出される。

  あの日、学校から帰ると、母がまるで睨むような険しい顔付きで私を二階へ引っ張っていった。
 そして階段を上りきった途端、声を殺して鳴咽しながら、「お父ちヤまが死んだのよ。もう帰って こないのよ」と言った。その時、私に父の姿がはっきりと見えた。それはおかしなことに一枚の写 真の父の姿だった。あそうか、こんな風に人の姿が眼前にはっきり現れることがあるんだなあ、

 それにしても何故あの写真なのだろうと思いながら呆然と突っ立っていた。涙は出なかった。母は 念を押すように言った。「戦死しても嘆いちゃいけないの。名誉なことと思わなくちやいけないの。
 だから泣いたのは内緒……」。

  はじめて短歌のようなものを書いたのは、敗戦後、天皇のご巡幸のあとの宿題だった。

   万歳の嵐の中を天皇はしずかに帽子振られて去りぬ

  まるで町民の全部が集まったように小学校の校庭は人で溢れ、前列に戦死者の遺族が並んだ。随 分と時間がたってから天皇は現れた。遺族たちに励ましのお言葉を掛けられ (これは後に知ったの かもしれない)、それから朝礼台に立たれて何か仰った。そして帽子を振られ立ち去ったのだった。
 天皇は気詰まりではないのだろうかと、ふと思った。陛下の乗られた自動車を迫って生徒たちは校 庭の端へ走った。私も走った。

  私の書く行為はここから始まった。私たち母子は父の生家に暮らしていたので、生活に不自由は なかったし子供にとっては取り立てて苦労はなかった。しかし、もはや無邪気という平和を手放し たのだった。戦争がなかったら、父が死ななかったら、母が悲嘆にくれなかったら、どのような少 女に育ったのかそれは分からない。或いはそれが私の資質であったのかも分からない。

  人が死に向かって生きていること、死んでしまった人には金輪際、思いを届けることが出来ない ことを体得したのだ。父の愛した私の、少しずつ成長し変わってゆく姿や心を、決して知らせられ ない無念を抱えた。父の愛した私が、父を恋しく思っていることを絶対に知らせてあげられないと いうことの斬心悦が日々に育った。人生には、絶対に取り返しのつかないことがあることに呆然とし たのだった。それが私の小学生時代である。

  しかし、数知れない多くの人々が同じような経験をしていることは知っていたから、自分を悲劇 の主人公とは思わなかった。偶然のように私たちはその時代のその場所に、人に生まれて生きてい る。そう意識すると、自分の小さな喜びや悲しみは、偶然のような必然の、その時々の雲の形のよ うに思われた。

  これらが資質に加わって、現在の私のシラケにも似た客観性を作ったように思う。私の俳句が私 を私とせず人間の一つの例として書かれることの因も、謳い上げない俳句形式に辿り着いた因も、 そこにあるのかもしれない。

  また、私の書く行為が戦争に関わって始まったことを思えば、次第に読者に通じにくくなるその 主題を手放すわけにいかないのだけれど、俳句のそれが難しくて困ってしまう。
 「キミがひたすら俳句を書いていることは、あっちでよく知っていたよ」と父が微笑んでいる、夢 のような夢を見て驚いたことがあった。あっちの国があるとも思えないけれど……だから私は書く。

                                              (「槌」2000年春夏号)





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