狼

                                 
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著 者 
亮玄
(りょうげん)
発行所 
狐尽出版社 
定価 1500円
 
 狼2010.2 Vol .32     TOP   BACK         
 
 特集 眠れぬ夜にひとり読んでみろよ   亮玄(りょうげん)
 




 「?が大事」大沢輝一

 
  写真・装丁・編集狐尽出版(所謂亮玄氏の手作り句集)
 「眠れぬ夜にひとりで読んでみろよ」と題した妙な句集が
 届いた。
  この句集を私は、何度読んだことだろう。その度ごとに
 (?)が頭の中を駆け巡って眠れないのです。作者も(?)
 が付くことは承知なのでしょう。帯に「これって句集なの
 ?」とあるとおり(?)が付くことは十分認識されている
 ことと思います。大事なことです。

  こういう作品は、読者に一気に読ませる「力」が必要だ
 が、この点はクリアしている。「眠れぬ夜にひとりで読ん
 でみろよ」(このタイトルには不同意です)は、従来にな
 い知的操作をされた読み物である。ところどころに俳句を
 挿入し、ちょっと目新しい工夫をした一冊となっている。
 でも私にはー物語が俳句の説明をしているーという思いが
 離れないのです。俳句は短い詩型である。故に、その時掴
 んだモノをたった十七音で描けるはずがない。

 それでも足して、削って、剥がして又削るーこの時間の妙味
 感が好きで又句づくりに勤しむ。この繰返しなのだ。出来
 上った俳句、提示した俳句の内容分解や自解などはしない。
 提示た俳句以外、何も語らないーと言うことが私流です。提
 示した俳句が全てで書き込んである世界が全てだという念い
 があるからです。

  青春それは「誰しもが恵経験する甘酸っぱい恋模様がここ
 にある」と帯にあるように、「青春」という過程のなかで一
 度は書いてみたい、書いておきたいと詩や俳句を作りその気
 持ちを示してみたいのも一つです。一度しか経験し得ない青
 春の願望。それをうまくまとめた作品集であることには違い
 ないが、先程の(?)が残る。

  俳句をつくり作り造り創ったものであることは、読後感して
 一応分る。七百句以上の句群から七一句に厳選されたようです。
 また俳句が先行し物語が後からーと作者の弁ですが、私には
 言い訳がましく、俳句で書き得ない部分を物語で補充している。

 つまり自解しているようで、何度も言いますが(?)が生れる
 のです。手品の種明かしをされているようで、はなはだ面白く
 ない。俳句は活字というメディア物に提示されてしまうと作者
 の手を離れ、一人歩きをしてしまうもの。という立最で。試みと
 しては面白い一面があるが、種明かしされた観客(読者)は「何
 だそうだったのか」というある種のシラケが顔を出す。

  「虚構による感動の再構築」によると、「俳句とは、書き手
 の文学であると同時に、読み手の文学である。そして時には、
 読み手側に、より比重が重い文学であるー略-受け手の解釈が
 ぶれやすいものも多い」と書く作者。この点の問題は一度討論
 してみたい内容であり、好ましい方向付けであると思います。

  以上 お祝いをもうし揚げねばならない句集出版に対して、お説
 教じみたものなつてしまいましたことお許しください。青春の真
 っ只中にいて謳歌し閥歩している亮玄君。私は、振り返っても芥
 子粒どころか、遥か大昔になってしまった青春。でも 老人には
 老人の俳句が有る ことを信じて、老人にしか「描けない俳句」
 でもって立ち向かいたい気持ちです。それに、この第一句集を出
 版された中内亮玄氏の今後について、青春の良い意味で甘さ軽さ
 を脱しえるか。又俳句作品として内容に厚味を描きえるか。この点 
 興味津津で注目している私です。

  句集中 私の好きな句。

  夜長かなふたりの肌の冷たくなる

  蝉時雨もう少しだけ遠回り

  花曇り昨日のやさしさのようにかな

  冬のやかん暗いくらいと鳴くのです

  かさぶたを桜のようにはがします

  千本桜長寿の村の火葬かな

  君はまだ冬の風詰めた麻袋

  山眠るあなたも狐の仲間ですか

  雪はたぶん降りたくて降る胎児

  不意の時雨に打たれて二月

  雲集め袋いっぱいの独り





    「中内亮玄的ケータイ小説+俳句」池本麻容子


  斬新で新しいスタイルの句集。小説+俳句。中内亮玄のチャレン
 ジだと思った。主に恋愛模様が中心の小説。そしてキッイ言葉、強烈
 な俳句これを発表するにはなかなか勇気がいると思う。

  さて、俳句。

  厚いステーキ君を切り分けるように

  「ステーキ」と「君」でエロチシズムを感じる。色んな展開が想像
 できる。ただ、散文的。無季。これに小説の内容がプラスされると、
 別れの場面になる。だとすると、別れの気持ちを清算していると解
 釈してしまう。作者の気持ちが伝わり易い反面、受け止める側のほ
 うの解釈は限定されてしまう。

  暗礁に乗り上げた夜の電話ボックス

  うまく心情の闇を表現していると思う。無季。いろいろなドラ
 マ性を感じる。これに小説がプラスされると、そばにいた女の子が電
 話ボックスの中では違う横側を見せ、別人のように感じる場面。なん
 となく分かるけど、なんかもったいない感じ…。二時間サスペンスド
 ラマ的なものを創造してしまった。

  夕焼けもぽろぽろ落ちるさみしいのだろう

  心情と夕焼けが同じ状態なのだろうか。ぽろぽろ落ちる、面白い質
 感が伝わってくる。これに小説がプラスされると恋愛らしきものを失
 った後。「最初からいらなかったものが無くなったからといって、何
 を気にかける必要があるのだろうか」の後に続く俳句。これは妙に
 まっちしていて成功していると、私は思う。

  若者の誰もが持っている心の空虚、叙情などを表現している。作者
 はあとがきに「今までにない一石を投じたつもりだ」と言っている。
  
  俳句に小説、文章は必要か、ということが問われると思うが、「小
 説+俳句」の世界を読むことで、改めて一句の持つ世界観、危うさを認
 識することが出来た。






   リアリティって何?佐孝 石画

  あたかも組紐のように俳句と物語を編み上げたこの句集は十分に魅
 力的であった。そして一読後、ある考えを私にもたらしてくれた。そ
 のちょっとした雑感について記させていただく。「現実」と「虚構」
 の組紐。「虚構によって作品にリアリティを与えることは可能で
 あると考えた。これが私なりの前衛(アヴァンギャルド)の形だ。

 この逆説的で意思的な宣言は、確かな説得力を持っている。そして俳
 句というジャンルの脆弱性と可能性を共に鋭く突き貫いていると言え
 る。彼の句集の中で俳句作品は「現実」サイドを、物語はそのイ
 メージに対する「虚構」サイドとして意識的にはいちされているよ
 うだ。しかしながら、彼の狙い通りに句集の中でリアリティーを持っ
 て迫ってくるのは、物語であり「虚構」サイドである。この結果こ
 そが、図らずも俳句の本質を衝いていると言わざるを得ない。

  そもそも俳句という器は現実を受け入れるには小さすぎるのだ。
 乱暴に言えば、現実を叙述するのを最初からあきらめている文芸形式
 なのだ。かつて新興俳句運動が活発だったころ、多くが戦争や現代的
 モチーフ探しに躍起であったころ、高浜虚子一人はそれらに背を向け
 「花鳥諷詠」を通した。その姿勢は今省みると恐るるに足る。俳句の
 本質を見据えた虚子の底光りする目玉が見えてくる。

  リアリティとは一体なんだろう。情報過多の現代において「現実」
 と「虚構」は異質のものではなく、常に剥がし剥がされ、飲まれ飲み
 込まれしながら何層ものベールとなって我々を覆っている。「現実」
 を見ながら「虚構」を夢想し、「虚構」を取り込んで「現実」を補完
 しようとする。「現実」でさえ「虚構」の追体験ツールとして取り込
 まれている感さえある。

  この時代に俳句という伝統的「追体験ツール」を携え、このような
 意思的な句集を編んだことは今後少なからぬ波紋をもたらすかもしれない。
  不遜ながら、「現代という痛々しさ。それは傷ついている傷つけられ
 ていることさえ知らない痛さ。そこに横たわる『虚構』と『現実』の近
 親相姦の中で生れた迷句集」と、帯に勝手に記させていただこう。
 
  そんなことをつらつらと考えさせてくれたこの句集はわたしにとって
 貴重な存在となった。

  最後に好きな句をいくつか挙げさせていただく。

  厚いステーキ君を切り分けるように

  満月光あやまることなんて何もない

  静けさや一重まぶたの月もある

  手のひらは木枯らし以上かもしれない

  向日葵の嘘ひとつずつちょっと死ぬ





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