・金子兜太自選句

風発行所 昭和30年

昭和56年 四季出版 |
『少 年』 昭和三十年 風発行所
解題 安西 篤(金子兜太集第1巻より転載)
付・口絵(著者近影)/「後記」、総頁・188頁、判型・B6判、造本・並製カバー装、発行・1955年10月1目初版、発行所・風発行所『少年』は金子兜太の第一句集で ある。昭和15年(1940)21歳から 昭和30年(1955)36歳までの十五年間の句業をまとめたもの。兜太が初めて俳句に手を染めたのは、昭和12年18歳の頃だから初期の未刊部分があったのだが、自ら世に問う第一句集として精選したものとおも われる。この句集により発刊の翌31年(1956)、現代俳句協会賞を受賞している。
選考委員会は、社会性論争を機に台頭してきた新世代、ことにその頂点に立つ金子
兜太に対する古参俳人の反発もあって紛糾し、結局能村登四郎との二人受賞となっ
た。俳壇の新しいうねりを象徴する受賞でもあったのである。
この句集の「後記」で、著者は句集のバックグラウンドとおのれの生き方(態度)を明らかにしている。
まず、『少年』という題について。十五年間の作品の集積によって、「生長」という一つのテーマを綴ってきたことを振り返ったとき、『少年』という題が閃いたのだが、それ は「決して現在の自分を生長途上の少年段階だなどと思っているわけで」はなく、「清潔で、生きいきしたものを僕は生長の過程で愛してきたし、今もなお愛する」からだという。
次いで、句集の内容を、結婚前後を境に二つの時期に分ける。前半が26歳頃まで
の青春時代、後半は戦後の生活を通しての思想的自覚の過程。前半は戦時下のまさ
に不毛の青春時代であって、「茫然たる不快と反撥以上には何もなく、一種の感受性
の化物としてその日その日を流していた」だけだったが、それだけに兜太自身の抒情
的体質を決定的にさらけ出していたともいえる。それがトラック島の体験を経て、結
婚前後を境に暗いサラリーマン生活のつづく日々のなかで徐々に変わっていく。
これまで純粋さ、誠実さ等といっていた善良なるものは、それを可能にする環境条
件を欠いてはありえないことに気づくようになる。
つまり「善良というものは本来的な性質(アンラーゲ)であって、ここから善意とでも言うべき社会的な性格(カラタクター)に展開しない限り、それを支え切ることは出来ない。
また、そうした社会的な性格に到るためには、自分の抒情的体質や封建的意識と裏
はらの感情の古さを、論理的に克服する必要がある」。そして「抒情的でなく抒情を、 観念的でなく観念を」として自分の生き方を定め、俳句における社会性の問題も、単に方法の問題として受け取らず、作者の生き方(態度)の問題として捉え返し、「ここから前進的に方法の獲得に向って自分を進めたい」と述べている。
この句集が今なお兜太句集のなかでもっとも人気が高いのは、このような作者の
ひたむきな姿勢と初々しい抒情体質が遺憾なく発露されているからだろう。
蛾のまなこ赤光なれば海を恋う
葭切や屋根に男が立上る
富士山麓 二句
野ばらの莟むしりむしりて青空欲る
富士を去る日焼けし腕の時計澄み
真葛野に晴曇繁(しげ)し音もなく
鰯雲故郷の竈火(かまどび)いま燃ゆらん
霧の夜のわが身に近く馬歩む
ノートに触れ冬の犬の尾固かりき
二等兵の肩章汚れ湖(うみ)荒れる
嫁ぐ妹と蛙田を越え鉄路を越え
階下の人も寝る向き同じ蛙の夜
欠伸して水蜜桃が欲しくなりぬ
なめくじり寂光を負い鶏(とり)のそば
夏誰か尺八(たけ)一管を壁に立て
首に弁当秋の蜂など山が聳え
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
あけびの実軽しつぶてとして重し
山脈(やまなみ)のひと隅あかし蚕(こ)のねむり
土間口に夕枯野見ゆ桃色に
木曾福島にて
木曾のなあ木曾の炭馬(すみうま)並び糞(ま)る
蝶の舞うたかんなの頭(ず)の黒かりき
少年の放心葱畑(ねぎばた)に陽(ひ)が赤い
赤蟻這うひとつの火山礫拾う
愛欲るや黄の朝焼に犬佇てり
秋㡡(あきかや)の父子に日の出の栄(はえ)満ち釆
蟹と共に海の入日へ向きて歩む
青梅落つ三とせの服はたるみつつ
盆の月わが屋根の上(え)に来ていたり
柿の木に月こもる頃寝(ね)に入りぬ
大芭蕉母の眼鼻(めはな)もうすみどり
かまつかに吾れくろぐろと征(ゆ)かむとす
秋風の父が手帖をめくりやまぬ
残る音や虚ろの倉庫そこに立ち
冬旱眼鏡を置けば陽が集う
トラック島にて 二十句
大き帆船厨の窓に月ひと夜
壕に寝しひと夜の裸身拭きに拭く
疲れ且つ戦い仏桑花を愛す
ふる里はあまりに遠しマンゴー剥く
パパイアの青果たわわに額(ぬか)さむし
床の蟻惑わば惑え熱を病む
紅雀偽装地帯にきわやかに
スコールに濡れたるままの夕餉かな
パンの実の熟れしにおいの戎衣(じゅうい)かな
岩に蜥蜴蟹は木の根に海荒ぶ
暁(あけ)のスコール飯食う膝に飛沫きつつ
森の奥パンの実青く焼かれおり
キャッサバ林軍靴を照らす火の果てに
マンゴー実り檳榔樹切り倒されてゆく
樹海の果て白照るリーフ見ゆるのみ
足につくいとど星座は島被う
古手拭蟹のほとりに置きて糞(ま)る
魚雷の丸胴晰暢這い廻りて去りぬ
パンの実の灯を得て青し手紙開く
被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり
トラック島にて終戦 三句
椰子の丘朝焼しるき日日なりき
スコールの雲かの星を隠せしまま
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
トラック島にて米側作業に従事 三句
あお向きしとき月ありぬ一つの月
葦の穂や滑走路昃(かげ)り吾等帰る
愚に近き日日やバナナは色づきて
帰国二句
水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど
戦後
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
朝日煙る手中の蚕妻に示す
黒川憲三の家にて
裏に清流この家の人等麦踏みへ
独楽廻る青葉の地上妻は産みに
墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に
舌は帆柱のけぞる吾子と夕陽をゆく
茜の冬田誠意の妻に何にもたらす
銀行員に早春の馬唾充つ歯
奴隷の自由という語寒卵皿に澄み
飯盛山
罌粟よりあらわ少年に死に強いた時期
確かなる岸壁落葉のときは落葉のなか
きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
暗闇の下山くちびるをぶ厚くし
屋上に洗濯の妻空母海に
夜の果汁の喉で吸う日本列島若し
港湾ここに腐れトマトと泳ぐ子供
妻にも未来雪を吸いとる海月の海
白い人影はるばる田をゆく消えぬために
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む
『少年』後記 金子 兜太
◇昭和二十五年に田川飛旅子、青池秀二と三人で句集『鼎』を出し、その時の
自分の題を「生長」とした。
この句集はその時の作品を殆ど網羅し、その後のものを「竹沢村にて」「福島に
て」「神戸にて」と住んでいた所に従って分類し附け加えた。
これによって昭和十五年から三十年六月までのーつまり僕が俳句を創りはじめ
てから現在までのー十五年間に亘る作品をこの一冊に纏めたことになるわけである。
◇僕は俳句が一句によって一つの主題を充分表現出来ると信ずるが、同時に
その集積によって主題を訴えることも大事だと思っている。十五年間の作品の集
積にょって僕は一つのテーマを綴る結果となった。それは自分の「生長」というこ
とである。そして今後ともこの主題は綴られつづけられるであろう。「少年」とい
う題は、そうした作品集積を振返ったときに閃いたものであった。決して現在の自
分を生長途上の少年段階だなどと思っているわけではない。清潔で、生きいき
したものを僕は生長の過程で愛してきたし、今もなお愛するのである。
◇生長という主題に即した場合、この句集は二つの時期に分けられる。境界は「
結婚前後」で、それ以前は満二十歳から二十六歳までの青春時代、それ以後は戦
後の生活を通しての思想的自覚の過程と云ってよいでぁろう。僕の青春時代はい
わゆる戦争下の青春という奇妙に印象的なものであったが、多くの友人達が暗黒
の支配に抗して、或いは捕えられ、或いは自殺し、また一方では無概念な民族的
情熱に馳られて熱狂していたなかで、僕は茫然たる不快と反撥以上には何もなく、
一種の感受性の化物として、その日その日を流していたわけだった。俳句を書きと
めたノートに二つの詩句が残されている。一つは「緑が丘は汝が王座」(ハイネ)、
いま一つは「わがこゝろは独り腐れるうしおでぁった」(ポー)。青春特有の不遜な自
負と多感への蕩酔、一方では重くかぶさる歪んだ現実への受身の反撥と、それから
くる希望のなさ、息苦しさ」-その混清であった。自分をもてあましていた。泡盛に酔
って団子坂を走り廻り警官に追われ、友人の下宿の壁に反吐をはきかけ、沢木や原
子のいたアパートに幾日も漠然と泊り込んで、浴衣を借りて当てもない猟奇的な散歩
をやった。戦争に反駁しっつ戦闘を好み、血みどろな刺戟に身を置くことを望んだ。ト
ラック島は好むところであった。
◇従ってまさに不毛の青春であったわけだ。いま顧ると全く何もしていなかったと言
ってよいもので、ただ流れるままに流れ、時に感情抵抗によって屈折するだけの抒情
-それだけであった。そして、このことは僕自身の抒情的体質を決定的にさらけ出し
ていることにもなろう。例えば僕は論理を嫌った。論理を構成するとき、既に本質は逃
げていると感じた。心情だけが本物であって、意志とか意欲とかいうものはまやかし
だと感じた。これらの底には、当時の空虚で観念的な国家論や道徳論に対する心理
的反撥も手伝っていたとは思うが、そうだとは云い切れぬ程、すべては感じの域を出
ないものであった。然し、こうした体質的な状態は「結婚前後」 の頃を境として、徐々に変っていった。正確には変らざるを得なかったと言うべきであろう。トラック島の体験から敗戦直後の暗いサラリーマン生活につづく日々のなかで、ただ一つの、しかし重大なことに僕は気付いていった。それは、今まで純粋といい、誠実といい、本物という場合、それを暗黙のぅちに対決させていた不純であり不実であり偽物である反対物に
ついてはこれを当然の前提とし、従って誠実等を可能にする環境条件を考慮していな
かったということであった。「竹沢村にて」 に到って、僕はある文章にこう書いた。善良というものは本来的な性質(アンラーゲ)であって、ここから善意とでも言う、べき社会的な性格(カ一フクター)に展開しない限り、それを支え切ることは出来ない。また、そうした社会的な性格に到るためには自分の抒情的体質や封建的意識と裏はらの感情の古さを、論理的に克服する必要があるiと。抒情的でなく抒情を、観念的でなく観念を-ということでもあるが、ここに僕は自分の生き方を定めた。「福島にて」「神戸にて」はその路線にある。
◇この句集のいわばパックブランドとでも云う、、へきものは以上の通りであるが、
最近の俳句における社会性の問題について、これを単に方法の問題として受取らず、
俳句作者の生き方(態度)の問題として把えたのも、そうした自分の道程に基くものであった。文学における方法は作家の生き方の深化 (認識及び思想の深化) によって確定されるものと僕は考えるので、生き方 (態度) を俳句以前の問題とすることは解説者の立場の発言としても、余りに形式的であると思っている。僕としては自分の定めた生き方を社会性を持った生き方と確信するので、ここから前進的に方法の獲得に向って自分を進めたいと念願している。その意識的なプロセスを僕は批判的リアリズムの段階と呼ぶが、そのリアリズムは方法というより、むしろ言葉の真の意味におけるリアリスティックな態度 (主として、行動による対象把握、対象の相対設定、それらを貫く客観精神)に傾斜しているものである。◇最後に、そして何よりも、自分の俳句が・平和のために、より良き明日のためにあることを願う。
1995.7.1
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